2年連続でシーズン1位にも関わらずパ・リーグ優勝を逃す
福岡ソフトバンク元年の2005年。目標はでっかく「めざせ世界一!」のもと、2005年1月30日(日)本格始動した。オープン戦開幕戦はライオンズ相手に白星を飾れず、続くヤフードームでのドラゴンズ戦にも負け・引き分けと3試合で勝ちなしとファンを不安にさせたが、3月3日にサヨナラ勝ちを収めて安心させたのも束の間。結果的には負け越しをしてしまう。また開幕投手最有力候補であった斉藤和巳が右肩の不安を訴え二軍に降格。いわゆる「大黒柱」を失った状態からのスタートであった。そこで開幕投手を誰にするか?と思った矢先に、和田投手が好投。そのまま開幕投手となり、2005年の公式戦へと迎えるのであった。
3月20日。福岡西方沖地震が発生。西戸崎練習場はライフライン切断、室内練習場は液状化現象で使用することは不可能だった。選手は被災者でもありながら、地震におびえる玄海島を始めとする福岡県民に勇気を与えるようなプレーをすると誓った。
迎えた3月26日。ヤフードームには「先発投手は和田毅 背番号21」がコールされる。開幕セレモニーソングとして藤井フミヤ氏
試合は予想通り和田・ミラバルの投手戦であった。先に先制したのはファイターズで7回でした。セギノールのソロホームラン。しかし、ホークス打線は和田を見殺しなんかにさせてはいられません。その直後の7回裏、誰がこんなことを予想したであろうか9番柴原が逆転の3ランホームラン。途中ひやひやさせる場面もありましたがソフトバンクホークス公式戦で見事白星を収めます。
この後も、新外国人「ホルベルト・カブレラ」の延長12回でのサヨナラヒットやIT対決となった対イーグルス戦では三タテするなど福岡県民に勇気を与えるようなプレーを魅せます。
ソフトバンクホークスとしての公式戦初敗戦は球場を千葉マリンスタジアムに移してのことでした。花火ナイターと名打ったマリンスタジアムサイドの誤算によりプレーが10分程度中断。それで集中力を失ったのかこの連戦を負け越してしまいます。
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05年の最大のイベント「セパ交流戦」が行われたのもホークスの強さを日本中にしらしめたのもこの時でした。(しかし、マリーンズがそれ以上に注目されてしまいあまり目立ちませんでしたが…。)スコアラーの努力・MJZ砲(松中・城島・ズレータ)・豪華絢爛の投手陣により2位という結果を残すことができました。特に印象深いのが「アウェー」の甲子園で3連勝という快挙を成し遂げました。
交流戦終盤からは連勝街道まっしぐら!交流戦後のマリーンズとの直接対決も勢いにのって4月3日以来マリーンズに明け渡していた首位を奪還します。「15連勝」というホークス史上では最大のほぼ3週間近く負けがないという快挙も成し遂げることができました。連勝をストップさせたのはホークスの天敵ライオンズの「松坂大輔」でした。のちにこの時の教訓がものすごい感動のドラマを生むことになります。
7月15日の対ライオンズ戦、ミーティングで王監督は「松坂のストレートを一発でしとめろっ!」とチーム全員におっしゃったそうです。それを実現させたのが04年のプレーオフ、松坂の前・ライオンズの前で沈黙したチームリーダー「松中信彦」でした。2回、4回、9回とホームランを放ちサヨナラ勝ち。これも印象に残る試合でした。
主砲や先発陣が注目を浴びているようですが、宮地・吉武・馬原を忘れてはいけません。宮地選手がいなければ打線は光ファイバーからダイアルアップと呼ばれていたでしょう。また吉武・三瀬・馬原の新勝利の方程式も何度見たことでしょうか?
後半戦に入りある程度順位が決まってきて、ホークス・マリーンズの首位争い、ライオンズ・バファローズ・ファイターズのAクラス争い(楽天一人負け)が熾烈となります。
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プレーオフでは2連敗の後、9回裏4-0から同点、逆転で2連勝というホークスの「絶対にあきらめない」という姿勢が日本中の注目・涙を誘いました。
第5戦では8回までリードを許しながら、エラーによるミスで逆転を食らいヤフードームでマリーンズの優勝を見るという結果になってしまいました。
プレーオフは1位進出チームに有利な制度であるべきだとおもいます。これではマラソンの後に100M走を行っているのと同じことだとおもいます。
是非とも06年こそはホークス・王監督の世界一美しい舞いを4回見たいと心から願っています。(WBC、パ・リーグ、日本一、アジア一)